社長ブログ

2018.12.09

テクスチャー

集水桝の蓋である。

何げなく町にあふれている集水桝の蓋ではあるが、横基調の格子のバランスがとても奇麗である。そして注目すべきは表面のテクスチャー。これは滑り止め効果を狙っているもの思われるが、その機能面もさることながら、鋳物ならではの造型である。

このようなテクスチャーは、一度溶かすという工程がない限り表現をすることは出来ない。シンプルな形状〈デザイン)に鋳物らしさの特徴のテクスチャー。

造型性と言う面から見た鋳物らしさが凝縮されている製品である。

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2018.12.08

忘年会

昨日は会社の忘年会であった。

とういうことで、昨日はブログを書き忘れてしまったのですが・・・。
モリチュウの忘年会は新潟の三条市で行う。なぜかと言うと、新潟にある板金工場のメンバーと一緒の時間を過ごすためである。なので埼玉から全社員が新潟に行き一泊で行うことになっている。このように普段顔を合わせないメンバーが年末に顔を合わせることでコミュニケーションが良くなる。実は私が社長になる前は顔を合わせる機会がなく、別の会社の人のようであった(と、ベテラン社員が言っていた)。そうそう、この会には中国で品質管理をしている社員(中国人)も参加する。

また、「忘年会」とは言うものの折角一泊で行くので内容は盛沢山。朝7時30分に大宮駅に集合し、協力会社見学、その後ホテルに移動し下半期の実行計画作成、ここで社長承認をもらったグループは忘年会に参加(こうなると皆飲みたいので時間までに必ず終わる)。その後二次会(希望者のみだが、ほぼ全員参加)。翌日早朝勉強会、ステンレス板金工場見学後、燕三条駅で解散となる。

実行計画作成の後の全社員参加の忘年会が社内募金総取りじゃんけんなどもあり、かなり盛り上がる。結構お金はかかるが(笑)、元気な社員の姿を見ると、嬉しくなると同時に、来年も頑張ろうと強く思うのである。

2018.12.06

頼まれごとは試されごと

社員教育の中で、普通の社員を出来る社員に変える言葉のひとつが「頼まれごとは試されごと」である。

この言葉は武蔵野の社員塾でよく使われている名文句である。社員は何かを頼まれると面倒だと思う。特に、忙しい時に何かを頼まれるとそう思う。それは当たり前の心理で正しい。しかし、その時どのような反応をするかで後が決まる。

「頼むと」いう字は「頼り」と同じ漢字である。その人を信頼して自分をサポートしてほしいと思って頼むのである。なので簡単に出来ないといったら、「頼り」を失うこと、つまり信頼を失うことになる。そして、その人の成長につながるような頼まれごとは二度と来ないだろう。チャンスは逃げていくのである、いや自ら逃がしているのである。安易に「出来ません」と言って、上司が「そうか、ではボクがやるからいいよ」ということになったら、運の尽き。自分を高め、成長させるチャンスを自ら捨てたということになる。こんな恐ろしいことは無いのであるが、残念ながら、「良かったぁ上司がやってくっれるって、ラッキー」と思う人もいる。

なので「頼まれごとは試されごと」ととらえ、果敢に挑戦する人と、そうでない人との差は毎日確実に広がっている。そしてそのことに気づいた人が勝つのである。

2018.12.05

嫌われる勇気

少し前に、「嫌われる勇気」という本が売れていた。今でも書店の店頭には平置きに置いてある本である。

心理学者であるアルフレッド・アドラーの書いた本で、私はまだ読んでないので中身は分からないが、タイトルだけ見ての感想は、大変大切なことであると感じている。

嫌われたくないというのは人間誰しも思う感情である。「本当は言わなくてはいけないのに、それを言うと嫌われる」と思うと逃げたくなる。そしてその方が楽だから、結果的に逃げる。その結果が、部下の成長を妨げることとなり、成果を上がられない社員はいじけるか、最悪退職をしていく。自分の逃げの姿勢、つまり自分の弱さがこの様な結果を作っていることに気が付いていないことも多い。

私は社員に、「良い社長になろうとは思っていません、成果を出す社長になります。その為に嫌われてもぜーんぜん構いませんよ」と堂々と言っている。それは、「社員の皆さんにとって大変なことであるかもしれないが、成果を上げる為には厳しいことも実行します」と宣言をしていることに等しい。

なので、「嫌われる勇気」が大事なのである。

※アドラーの「嫌われる勇気」の内容とは違っているかもしれませんので、悪しからず。

2018.12.04

普通にすごい人

昨日はダイバーシティについて書いた。

今日は別の視点から関連するとについて思うところを書きたいと思う。人は極端なことやレアケースを好む傾向がある。当然それは目立つことであり、「話題性」という観点で言えばこれ以上ない題材となる。

例えば「偏差値40から有名大学に合格した」とかいう話などがそれにあたる。勿論その題材になった人はとても努力をしたはずであるし、それは素晴らしいことである。しかしそれをことさら凄いこととして広めようという感覚には残念ながら馴染めない。そしてそれを極端に礼讃するような風潮にも違和感を感じる。また、時に本人がそれを吹聴するときもあるが、「・・・」である。

普通に一生懸命頑張って有名大学に入った人もいるし、大きな成果を上げた人もいるはずである。しかしヘタすると、「そういう人はやっぱり頭が良い人だから」、とか「もともと育ちが違うから」とかという話になり勝ちであり、話題にもならない。

私は、目立たないが実はとても努力をして、大きな成果をだし、でもそれを顔に出さず、多くを語らず・・・と言う人を沢山知っている。そしてその方がカッコいいと思うのである。