社長ブログ
2018.08.26
お魚さん
日曜日はアートシーン
この壁面の装飾は、あるホテルの壁にかかっていた物である。海辺だったので魚をモチーフにした作家の作品であろう。白い壁に、なんともユーモラスな表情をしながら小魚たちが群れている様子は、非常にインパクトがある。そして部分的に尾びれと体が重なっている部分があり、レリーフ全体に奥行き感を出す工夫をしている。
製作方法はアルミ鋳造である。壁面に付けるので軽量化が求められるので当然の選択となる。そして表面をバフ研磨で磨きをかけている。この光沢を出すにはAC7Aという材質でないといけない。
拡大をした写真をよく見ると、目の部分や口の先は意外とラフな仕上がりになっている。実は丁寧に仕上げしぎると全体のエネルギーが失われ、レリーフ全体の強さと手作り感が失われてしまい、作品に勢いがなくなる。適度にラフな感じが実は味なのであるが、日本でこの感覚は伝わりにくい(手を抜いていると勘違いされる)。
今度、自宅用に一つ作ってみたいと思った。
2018.08.24
奇跡の社員(1)
昨年の2月に中国に出張をしたモリチュウの幹部が、現地で病に倒れ緊急入院をした。この話は師匠である小山昇さんの「数字は人格」という本でも紹介されている。いずれどこかでこの話をしっかりまとめておかないといけないと感じていた。今日はある宴席でこの話が出たので、しばらくこの件について書いていきたいと思う。
事の起こりは2017年2月のことである。現地(中国大連)に協力会社の定期訪問目的で出張をした弊社部長のHは、現地に着いて直ぐに足の様子がおかしくなり、付き合いの深い現地のエイジェントのO社長に電話、病院に連れて行ってもらった。足の痛みで病院に行くのだから余程のことであったのだろうが、本人は時々出る持病の通風だろうと思い、痛風の薬をもらって帰ってきた。だが、その日の夜に容態が急激に悪化し、上記の通りエイジェントの社長を再度呼び出した。
O社長が部屋に行くと、本人は顔面蒼白、そして足がはれているためズボンが上まで持ち上げられない状態となっていた。その時のHは、体の急激な変化から来るショックの為か、ほぼ呼吸困難に近い状態であった(O社長談)。昼の時に比べ、あまりにも急な変化にO社長も驚き、即救急車を呼び病院へ搬送をした。その際、O社長は「ここの病院に連れて行ってほしい」と大連大学附属中山医院(大連鉄路医院)を指名をした。O社長は外国人が病気になるとこの病院に行くことが多いことを知っており、指名したのであるが、実はこれが後に効を奏することになる(続く)。
2018.08.23
ISOの審査
本日は年に1回のISOの審査日であった。
昨年ISO9001の2015年度版に移行し、1年目の審査であった。昨年指摘された観察事項が5つあったが、それはほぼ改善が完了、「問題なし」とのお墨付きをいただき、一安心をした。実は昨年のISOの審査の後に、指摘事項に焦点を絞った点検(QC点検)を毎月行ったのだが、それが効果ありとなった。最初に点検をしたときは、ほぼ半分くらいしか出来ていなかった。そして翌月も100点満点で60点程度であったが、地道に繰り返した結果、最近ではほぼ100点満点に近くなった。なので「問題なし」となったのである。大きな問題点はなかったので多分審査は通ると思う。
「良かった」と一安心したいところだが、残念ながら今回も観察事項が2つ出た。これがまた「そこを突くかぁ」といった鋭いところであった。しかしそう思うということは「問題あり」と普段から思っていたところで、逆の見方をすれば「よくぞ指摘をしてくれた!」ということになる。普段社長が言えないことを、ISOが語ってくれることになるからである。当然QC点検に新たな項目が2つ増えることになる(やったー!笑)。そして今回は期待の若手社員3人を同席させ一緒に審査を受けた。直接聞くその指摘をどのように受け止めただろうか。
以前、地元の大先輩T社長が「ISOが俺の言いたいことをすべて言ってくれるんだよ」とお話をしていたことを思い出した。ISOの審査は、年に1回外圧を利用して会社を前進、発展させていく素晴らしい機会なのである。
2018.08.22
学生時代
学生時代は悩み多き時代である。かく言う私自身もそうであった。今考えるとどうってことないことが、当時はこの上なく深刻なことのように感じたりする。歳を重ねると鈍感になるのか分からないが、逆に触ると切れそうなくらい鋭敏で多感な学生時代は、ある意味つらい時期でもある。
そんな学生時代を「モラトリアム」と呼ぶことがある。「モラトリアム」とは「支払猶予」のことである。つまり、「社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期をさす」と解説されているが、本来であれば「余裕」があるはずの支払猶予時期が、実はつらい時期であったりする。そしていつまでも支払猶予が許されるはずもなく、どこかで「モラトリアム」期間は終わるのであるが、それが終われない人は「自分探しの旅」を続けることになる。その代償は結構大きい。
モラトリアムを脱するには決断をすることが大事である。これは何かを選択するということであり、逆の言い方をすると、それ以外を諦める、あるいは捨てるということになる。諦めるのは良くないと一般的に言われるが、決断をするということはそういうことである。そして他を捨て、残ったところを狭く深く進むと、逆に世界が広がる。ステーブン・コビー氏の弟子であるジェームス・スキナーの引用に「集中するものは拡散する」とある。やらないことを決めて集中すると、そこから新たな世界が広がる。まさに拡散をするのである。
捨てる、あるいは諦めるとは、私にとっては前進するための「積極的選択」なのである。
2018.08.21
ストーリーとプログラミング
映像作家や映画監督が作品を作る時に当然ながらストーリーを作る。
ストーリーでは展開が重要である。展開とは、物語の順番をどう組み立てるかであり、その順番によって伝わり方、感動が違う。例えば推理小説で、最初に犯人を教えてしまうのは、敢えてそのような展開にする場合は別にして基本的には面白くない。そしてあっと驚く意外性が盛り込まれストーリーとしての深みが増す。
プログラミングはどうであろうか。これは手順を順番通りに並べるということ。そこには感動というウェットな世界は不要かもしれないが、逆にシンプルさが求められる。
ストーリーにはウェーブがあるが、プログラミングは直線である。そしてその共通点は、ゴールを明確にし、そこに至る展開を考え、順番を考慮して並べるということである。
オイラーの公式が「美しい数式」と言われるように理系にも美がある。理系と文系の違いは心の振動の有無と捉えることもできるが、個人的には、絵画で言う「印象派」と「抽象画」の違いと考えた方がすっきりする。表現方法は違うが、ともにアートである。文系だからと言って、プログラミングに対し勝手な苦手意識を持つ必要はなく、理系だからといってアートについて語れないということはない。自分自身を型にはめ込んではいけない。「色彩の魔術」も「簡素な機能美」も、共に美しいと感じられる感受性が大事であり、プログラミングに込められたストーリーが語れれば、それはまさにアートなのである。