社長ブログ
2018.08.31
奇跡の社員(6)
高価な抗生物質を買いに行った話を書いたが、一つ書き忘れていたことがあった。それはここに至る前にH は大変な決断を迫られた。それは、「足を付け根から切断をするかどうか」という決断である。担当の先生からは生存確率を高めるにはそうするしかない・・・という結論から来た話ではあるが、あまりにも過酷な話である。しかも切断をしたから生存できるという保証はない・・・先生は本人にそう明確に告げた。そんな中、H 本人は頑なに切断を拒んだ。これは何を意味するのか。言い換えると、つまり死を覚悟したということである。
このような状態の中、最後の頼みの綱であった抗生物質を投与された・・・が、残念ながら効果は限定的であった。そして、寝泊りを繰り返す献身的な中国人スタッフにも疲れが見え始めてきた。
膠着状態が続く中、例えばこの状態があと1週間、あるいは一か月続いたらどうなるだろうか・・・。それは残念ながらあり得ない話であった。家族にとっても、私にとっても、そして中国人スタッフにとっても時間的制約の限界が来つつあった。
中国側の医療チームは優秀であったが、言葉が通じない為家族に対する説明も直接できないというジレンマ、そして治療もある意味行き詰まりの状況であることが見えつつあった。現状の維持は出来ても良い方向に向かわせることは難しい・・・。そして気を少しでも抜いたらあっという間に死に至る。「人喰いバクテリア」と言われている細菌が肺か脳にまで行ってしまったら望みは断たれるのである。
そこで「ここまで来たら日本に帰して最後の望みを託すしかないのでは」と考え始め、まずは、娘さんに相談を持ち掛けた。実父の死を覚悟する姿を見ていたせいだろうか・・・その時の娘さんの返事は・・・「どうせ死ぬのであれば、日本で死なせてあげたい」・・・これは強烈に心に響いた。そして同時に「日本に帰す方向も考え始めている」という話を担当の先生にも伝えた。最終的に中国側のドクターも、「日本で治療を継続すべきだ」ということになり、飛行機で日本に帰すという方向で進み始めた。ただ、もしそうなるとすると普通の飛行機では帰れない状態であることは明白なので、相当の費用がかかる。勿論過去の経験がないのでどのくらいかかるのか想像もつかない。そして、それについて誰が負担をするのか・・・これはモリチュウで負担するしかないと、腹をくくった。
2018.08.30
奇跡の社員(5)
ところで、肝心の社員Hの現状はと言うと、すっかり回復をしてフルタイムで仕事をしている。今では月に1回だけ定期健診に行っているが、それ以外は休むこともない。ほぼ全快である。
今後中国の医療事情も交えながら書いていくが、その中には思わず笑ってしまったり、開いた口が「あんぐり」のまま・・・といこともあると思う。現在本人が回復をしているということなので、不謹慎と思わず読んでほしい。
さて、この高額の抗生物質を使うことになったのだが、O社長は「これは、高いよぉ」と言いながら外に出て行った。何しに行ったのかと思ったら、この抗生物質はここの病院にはないので、他の病院に取りに行くという。「???」である。事情を弊社中国人スタッフのKに聞くと、中国では治療に使う高価な薬は処方箋を渡され自分で買いに行くのだという。確かに今までもO社長は時々どこかに行き、包帯とかガーゼとかを抱えて帰ってくる姿を見た。「そうか、あれは下の売店と薬局で必要なものを買っていたのか」・・・と後で分かった。そしてO社長はこの時、先生の指示で、指定された抗生物質を他の病院に買いに行ったのである。
更に突っ込んで話を聞くと、どうやら治療費も前金制と言うことが分かった。つまり事前にデポジットを入れて初めて治療がスタートする。そして毎日治療日報が患者の家族に渡されるが、治療が進むと、デポジットが足りなくなってくる。そうすると看護師の方が、「デポジットがなくなりそうなので、追加の支払いをしてきてください」と言われる。そして支払いが出来ないと、そこで治療が終了となる・・・。
私は気が付かなかったが、Kの話ではこのデポジットが払えずICUから出て行った方もいたとのこと・・・何ともむなしいが、これが現実であった(続く)。
2018.08.29
奇跡の社員(4)
さて、手探りでの治療を続けながら数日が過ぎていった。看病をする家族ももちろんそうであるが、一緒に見守っている中国人のO社長と弊社スタッフのKも疲労が溜まってくる。
実は、いつ何時容態が急変するやもしれぬ状態のため、誰かが病院に宿泊をしなくてはいけないのであるが、家族の方だけ泊まっていてもどうにもならない。それはいざという時に、言葉が通じないと困るからである。なので、交代でO社長とKが病院に寝泊りしてくれていた。しかし二人とも家族がいるし、仕事もある。そんなに長期間病院に寝泊まりをして貰うわけにはいかない。何か方策を考えなくてはいけないと思っていた。夜病院に泊まってくれる人を派遣してくれる会社なんてあるのかなぁ・・・しかも日本語が分からないと困るし・・・。
4日目になってもなかなか良い方向への変化が見られない。特効薬が見えてこない。そんな状態の中「最後にこの抗生物質(正式には血清と言ったかもしれない)を試したい」という説明があった。それまでも結構高価な薬が使われていたが、それはこれまでとは比較にならない位高いものだった。O社長の「んーん、これはすごいよ、高いよぉ」という言葉がまだ耳に残っている。しかし、高いからといって怯んではいられない。治療に保険が効かないことは分かっていたので取り敢えずそれなりの現金で持って行ったので即決。それを使うことにした(続く)。
2018.08.28
奇跡の社員(3)
昨日の記述の中で「今回の炎症を起こしている細菌に効く抗生物質を試す治療が続けられるのである」という記述に気が付いたであろうか。要するに、訪中した時にはこれと言った決定的な治療方針がまだ決まっておらず、様々な抗生物質を「試す」手探状態で治療が進んでいたのである。「なんということか?」とお思いになる方もいると思うし、私自身もそう思った。しかし、これについては中国の医療チームを非難することは出来ない・・・と後で分かった。
実は中国での急性壊死性筋膜炎症の発症例は非常に少ない。大連大学附属中山医院(大連鉄路医院)ではこれまでにHを含まず3人の症例しかない。大連大学附属中山医院(大連鉄路医院)は、「鉄路」という文字からも想像できるかもしれないが、実は「旧満鉄病院」であり、その起源は日本国であり、満州国が存在していたころからあった病院なのである。つまり歴史は古い。勿論いつから数えてかは不明であるが、つい最近の話ではないことは容易に想像できる。そして、同じ病に見舞われた患者のうち2人は死亡、一人は命はとりとめたものの、片足を切断となった。なので、間違いなく中国全土、あるいは世界中から情報を集めつつ、手探り状態での治療を続けていたはずである。中国側医療チームの「この患者は絶対死なせない」という執念がここに見て取れる・・・がそのことを理解したのはずっと後のことである。。
手探りでの治療方針、言葉の違いからくるコミュニケーションギャップ、いつまで続くか分からない膠着状態。そして最悪は限られた情報の中で究極の判断をしなくてはならないかもしれないプレッシャー。気丈に頑張る娘さん。不安に押しつぶされそうになりながら懸命に状況見守っている奥様。そんな中数日がむなしく過ぎて行く・・・。全体に徒労感が広がりつつあった(続く)。
2018.08.27
奇跡の社員(2)
実は社員Hは、1回目に病院に行った後、自分でも異常を感じ翌日の飛行機で日本に帰ってくるつもりだった。事前に「足が痛いので急きょ帰国する」と連絡が入っていた。正直「行ったばかりでまったく・・・」と思いつつ「しょうがない」と許可をしたのである・・・が、翌日まではもたなかったのである。
入院をした翌日弊社の現地スタッフのK(中国人)に連絡をしどんな様子か聞いてみた。彼は「あまり良くないです」と言う。「あまり良くないとはどういうことか・・・?」と聞いてみると、「社長もすぐに来た方が良いです」とのこと。「そんなにひどいのか・・・」と聞くと「そうです、命が危ないです」と言う。
そこで私は師匠の小山さんに事の事情を相談した。小山さんの答えは「すぐに現地に飛べ」とのことであった。そしてHの奥様と連絡を取り、奥様とすぐに動ける娘さん、そして私の飛行機のチケットを即手配した。娘さんは即中国入り、私と奥様は翌日、中国に飛んだ。
Kは、私たちを飛行場で迎えに来ていて、合流後、即病院に向かった。その時すでにHはICUに入っており生死の縁をさまよっていた。ICUに入っているため勿論中には入れず。状況が確認できない。ICU前の待合で無為な時間が過ぎていく。夕方一度看護士とベッドの上の本人が出てきたが、本人は多少話は出来るが麻酔でほぼ意識朦朧状態である。それもそのはず、急性壊死性筋膜炎の場合デブリーマンという過酷な治療をするしかなく、その痛みを抑えるためには強い痛み止めを服用するしかない。そんな中、今回の炎症を起こしている細菌に効く抗生物質を試す治療が続けられるのである。そして、看護師との会話も中国語なので、細かいところまで分からない。出てきても話せる時間は5分程度。訪中初日を終える前に、「これは大変なことになった」と正に途方にくれたのである(続く)。